| そばさきの独り言 |
目次 郷土の無名画家・岩井昇山」 寄居準倫理法人会の開設にあたって モンゴル再訪B モンゴル再訪A モンゴル再訪@ 寄居の風景 市町村合併ビフォー・アフター 荒川源流ツアー 新年度に向けて モンゴル小紀行 新生トンボ公園 私の職業観 災害とトンボ公園 あらかわジャズコンサート インターネットの功罪 ホームページづくりは楽しい あらかわめっせ そば打ちの楽しみ 荒川いかだ下り |
皆さんは、岩井昇山という人物をご存知だろうか。恐らく、ほとんどの方は初めて聞く名であろう。実は私もその名前を知ったのは、今年で八十七歳になる父が所蔵する二曲一双の屏風絵の「昇山」というサインを見止めた時である。今からかれこれ三十年以上も前になるだろうか、その屏風絵は、元は襖絵であったろうか四季山水の絵で、細密画のような精緻さと、それでいながら四季折々の空気感を的確にこちらに伝えてくる秀逸なものであった。「昇山」というサインも、鋭利な日本刀のような切れ味を持った存在感のあるものであった。 「昇山って誰?この絵は素晴らしいね。」 父は顔をほころばせながら言った。 「家のすぐ近くに住んでいた絵描きさんで、全く無名のひとだけど眺めていると不思議に落ち着くので気に入って集めているんだよ。お前にも良さが分かるかい。」 しばらくしてどこから手に入れたのか、昇山に関する一文を持って私にワープロで清書しろと言う。それは、次の通りであった。 郷土の画家 岩井昇山 岩井昇山は寄居町桜沢本村に住し、妻(くに)と共に身寄りとてなく暮らしていた。糊口をしのぐため、遠近の僅か訪うひとの求めに応じ、祝い絵の蓬莱山などを書きながら、古武士そのものの枯淡の日々をすごしていたという。 翁は名は小五郎といい、号は昇山、明治三年東京に生まれる。父祖は京都伏見の甲冑師、岩井平次郎秀一師で、蜂須賀阿波守の家臣。明治維新の際、旗本八万旗の版籍奉還と共に零落したという。 父の太政官任官後、幼くして松本楓湖、吉沢雪山に歴史画を学ぶ。以来、今日までこの道に精進した。世に無名的ではあるが、その絵画たるや実に清澄透徹、澄みて鏡の如しで、一種独特なる風格を持った名画である。 昇山の絵を生まれてはじめて見て私は驚いた。 「これが昇山の絵か!」 まさに俗を越えた悟悦の境地。いうなれば、かの剣聖「宮本武蔵」の筆を思い驚嘆した。 おそらく一級品にて、識者もまた感銘する事は想像に難くはない。 昇山は昭和二十八年一月十一日未明、眠るがごとき大往生を遂げたという。 少し、文体は古めかしいが名文である。内容もどうやって調べたのだろうか、後に専門的に調査する事になるが、相当確かなものである。作者は折原の麦屋清済氏だと聞いた。 父も一時期、大変な執心振りだったため近在の骨董仲間では、昇山が出たら柴崎さんのところへ持って行けということになっていたらしい。父が最初に昇山の作品に出会ったのは昭和三十三年頃というから、かれこれもう少しで五十年にもなる。以来、薦められるままに無名であるからしてそれほど高価なものではないので、今では四十数点の作品がある。 少し話は変わるが、私のもうひとつの趣味はインターネットである。ホームページの開設はここ寄居近在では早いほうで、今ではアクセス数が十六万件を超えている。実はそれにこの昇山のことを載せたのである。そうしたところ、この現代の機器は、はるかに想像を超えた出会いを作り出す。実は三年ほど前、何と昇山のひ孫だという方からインターネットを見たと言って私に連絡をよこしたのである。何としても昇山の作品を見てみたいと言う事で拙宅にもやってきた。その喜びようは尋常ではなく、つくづく収集してきた父も嬉しかったようである。極め付きは、美術専門誌の「美庵」という編集者から連絡が入り、何とこの無名の画家である昇山の特集を組みたいという。その編集者は堀川氏というが、東京の骨董店で目にした画がことのほか気にいった。作者は昇山というがどこを調べても的を射ない。これほどの技量を持った画家なのにどういうわけか、深く興味を持ったのだと言う。インターネットで検索をしたら私のところに行きついたのだという。そこで特集の話である。私と父は最初冗談かと思ったが、相手は至極真面目である。その後、一年がかりの取材を経て 、
「幻の画家・岩井昇山」という冊子が出来上がった。さらに詳細をお知りになりたければ芸術出版社(03・3464・4451)に問い合せて欲しいが、一読に値する仕上がりである。我々にとって、特に嬉しい記事をご紹介したいと思うが、それは画家であり国芳研究の第一人者である悳(いさお)俊彦氏と父との対談のくだりである。悳)絵というのは、その作者の人となりをよく表します。昇山の絵は、非常にというより極端に繊細な人柄が出ていると思うんです。単に細かい絵を書く人が繊細かというとそうではない。省くべきところをしっかり省き、描くべきところはしっかり描く。だから描いていないところも立派に発言し、繊細なところがより引き立つ訳です。描きすぎた絵はただうるさいだけですから。最小限の言葉で、言うべきところはしっかりと言う。昇山の絵はそういう絵だと思います。つまり昇山は無駄口を叩かない。しかし士族の出だけあって、いざとなればしっかりと言うべきところは言う。そんな人間像が彼の絵から見えてきます。決してひと嫌いなのではなく、ただ世間の雑事に惑わされずに画道に打ち込みたかったという事でしょう。 柴崎)そのお言葉をうかがうと、不遇のまま亡くなった昇山も浮かばれる気がします。昇山と付き合ってもう半世紀近いですが、改めて自分でも本当に昇山が好きだったんだなと思います。 与えられた紙面が少なくなってきた。そろそろ文を閉じなくてはならないが、世によく親子の断絶とか、親父が黒と言うと、息子が白と言うケースもある。私たち親子は、無名ではあるがしっかりと自己の信念を貫きながら画業に打ち込んだ昇山の生き様を誇りに思う気持ちを共有している。 昇山の作品は、まさにその証なのである。 (了) 一年前、人口3万8千人の寄居町に、本当に倫理法人会が開設できるとは、誰が予想したであろうか。しかし、確かに時代が後押しした。マンション偽装、偽メールによる国会の混乱等々、考えられない不祥事が続く中、今こそ倫理が求められていた。この地域に限れば、ホンダの進出という追い風もあった。そんな焦燥感と期待感の交錯する中、私を含めて、真に幸福な人生をおくるための、確固たる行動規範が求められていた。そんな漠たる飢餓感に、普及の言葉の数々が隙間を埋めていった。勿論、先輩各位の強力なバックアップのおかげであることは言うまでも無い。 こうして、自然発生的なようであるが、必然的に同志になってくれた寄居の会員たちは、開設式典の折、各人の言葉で抱負を語ってくれた。その明確な目的意識を持った、彼らの今後の人間的な成長を思うと、今でも興奮を抑えられない。私の人生の中でも、強く思い出に残る一日であった。 生みの苦しみは過ぎた。育ての苦しみもあろうが、「苦難福門」真正面から、楽しみながらそれに取り組みたい。 次の正法人会への昇格を目指して・・・。 (埼玉県倫理法人会広報 2006.7)
モンゴル訪問記も今回が最後である。前回の馬をプレゼントされたバンザさんのゲルを後にして、次はモンゴルの国立公園の中のキャンプ地へと向かった。そこはテレルジ国立公園という。奇岩奇石の連なる森林地帯でモンゴル有数の保養地帯である。キャンプ地は「ブーエーバートル」といい、ブーエーとは揺り籠という意味らしい。確かにそこは小高い山に囲まれて、あたかも母親の胎内にいるような錯覚を覚える、何とも心地よい場所であった。 一面に高山植物やハーブが自生しており、天国の花園もこんな風かと、見紛うばかりであった。どういう訳か宿泊は外国人しか認められておらず、同行したドーギーたちは、車の中で寝起きしていた。小粋なレストランも併設され、トイ レも水洗トイレがあり抵抗感は全くない。夜はゲルに泊まったが、7月というのに薪ストーブを焚いて寝た。残念ながら満月の夜であったため、星の観察は不十分であったが、次回は新月を狙って来たいものだ。翌朝、すがすがしい早朝の冷気が我々を包んだ。この空気を深呼吸したら、どんな病も癒えてしまうだろう。全く現代人が忘れかけている佇まいが、ここにはある。午後ウランバートルのホテルに戻った我々は、第二期の研修生の家族と懇談を持った。会うのは2回目なのですぐ打ち解けたが、お土産に日本にいる研修生たちのビデオレターを渡したら本当に喜ばれた。考えてみれば3年間、愛する家族と離れ離れになって暮らすことは、想像以上に大変なことだ。今、私が考えていることはドーギー達を含め、研修終了後の彼らの身の振り方である。いろいろな事情から、今のモンゴルはまだまだ働く職場が不足している。これからの課題は、まずビジネスの創出であろう。そこで、つい先日のことだがモンゴル工場を立ち上げることにした。「モン・シバサキ」という社名でドーギーが社長である。ここに至るまで様々な苦労があったが、それを彼らはひとつひとつ解決した。そして何より彼らとの信頼の絆が、実現の要であった。その絆は、自然をこよなく愛する精神の共有であり、何といってもこのトンボ公園の活動を通じての、彼らとのアイデンティティの賜である。 今後も様々な苦労が、待ち受けているだろう。しかし彼らは何とかそれを乗り越えていくことだろう。モンゴルの遊牧民の精神とは、他人(ひと)を信じ切る力だという。またまた、彼らに学ばせてもらった。おわり(2005/3月トンボ会報) 前回の会報に続いてのモンゴルの印象記である。 以前にも書いたが、ともかくモンゴルの醍醐味は田舎である。今回はドーギーの奥さんの親戚筋にあたる家族が居住する、ウランバートルから約100キロほど東に位置する田舎を訪問した。前の週までの、モンゴルでは珍しい雨模様もすっかり晴れわたり、どこまでも蒼い空が我々を歓待してくれた。舗装道路から脇道を入り、草原の中に車を走らせると何ともいい香りが我々を包む。「にがよもぎ」の一種だろうか、この草原の匂いを嗅ぎに来るだけでもかの地を訪れる価値がある。何とも心を癒される香りである。後日譚であるが、フランスの画家たちが、この「にがよもぎ」入りのアブサンという強い酒の虜になってしまった話を聞いたことがあるが、何か怪しい、癖になりそうなエキスがあるのかしらん。 目的地に着くと、バンザさん達家族が、一際人懐こい笑顔で我々を迎えてくれた。高地のため紫外線が強いのであろう。バンザさんは、真っ黒に日焼けさせた精悍なモンゴルの男の顔をしていた。奥さんは心優しい働き者の風で、心から我々を待っていてくれたようだった。小奇麗に整えられた大きめのゲルに我々を招き入れ、まずは慣習のウオッカの乾杯である。おつまみは山羊の乳で作った手作りのチーズだ。自慢の馬乳酒もいただいた。何でもお望みの体験をさせてくれると言って、乗馬や、山羊の乳絞りや、燃料となる乾燥した馬糞集め等々、大いに楽しませてくれた。まさにミニ・ツーリズムである。すっかり皆が打ち解けあい、談笑していたらバンザさんが耳を疑うようなことを話された。「あなたのことはドーギーたちから聞いていたが、日本に居るとき大変お世話になったそうだ。実際こうして会ってみてそれがよくわかった。気に入ったので、私が飼っている馬で一番いいやつをプレゼントするから、日本に連れて行ってくれ。」と言われたのだ。私もモンゴル人と馬の濃密な関係はよく知っていたので本当に驚いてしまった。まさに一番大切なものを初対面の他人に、惜しげもなく差し出すことなのだから。実際、牝の3歳馬で、毛並みもよく素晴らしい馬であった。私も本当に感激してしまったが、日本に連れて帰るわけにも行かないので、どうか毎年会いに来るから大切に預ってくれる様に頼んだものだ。そうしたら、来年この馬は子供を産むだろうから、その子もあなたのものだと言う。ちなみに名前をつけろというので「サクラ」にした。 ![]() 後ろ髪を惹かれるようにして、かの地を立ち去ろうとすると、奥さんが我々の車に山羊の乳をかけてくれた。旅路の安全を祈願してのおまじないだという。何とも気恥ずかしいような、ワクワクする様な、一生涯忘れ得ぬ出来事であった。(つづく)(2004/12月トンボ会報) すっかり<お気に入り>になってしまったモンゴルに、この夏、再び訪れることができた。トンボ公園の作業にも献身的に手伝ってくれたモンゴルの青年たちが、当社の3年間の研修を終えて帰国し、彼らの再三の來蒙の依頼に応えるためである。今回は、ワイフを含めて女性3名と男5名のグループ・ツアーである。トンボ公園からは内田さんが参加してくれた。 本当は7月11日前後のモンゴル最大のお祭り、ナーダム(本来は革命記念日だが、各地での子供たちによる草競馬やモンゴル相撲、民謡大会等々、国中が盛上る)に合わせて行きたかったのであるが、ホテルの予約が困難であったため、その一週間前に訪問した。以前、社用で12月の極寒(−30℃)のかの地に行ったことがあるがやはり夏のモンゴルは最高だ。 5時間ほどのフライトを終えて夕刻、ウランバートルに降り立った我々をドーギー、ナラ、ムンフー、ボルドー達がこぞって出迎えてくれた。久しぶりの懐かしい彼らの笑顔は、我々に今回のツアーが心地よいものになることの予感を与えてくれた。驚いたことに彼らはマイカーで待っていてくれた。さらに大きくはないがマンションも購入したという。現地の価格で日本車の中古で六千米ドル、マンションは二百万円ほどだという。我々の感覚では安い感じがするが、通常の月給が一万円ということからすれば大変なことである。日本に滞在中の彼らの努力の賜物であることは言うまでも無い。 今回の旅行の素晴らしい印象は枚挙に暇は無いが、特筆すべきは彼らの日本滞在中の経験を背景にした、威風堂々とした立ち居振る舞いである。決してそれは傲慢なものではなく、3年間の日本での様々な体験が、彼らの矜持となって一回りも二回りも彼らの器を大きくしていたのだ。無論、このトンボ公園の仲間たちとの交流は、大いにこのことに寄与したことは言を待たない。ナラの話したことが特に印象的だった。「私の周囲のモンゴル人は私の話を聞くと皆、日本に行きたいと言うんですよ。」 私もそれに答えて言ったものだ。「私の周囲の日本人は皆、モンゴルに行きたいと言うよ。」つくづく彼らとはいい交流をしたなあと思った。(つづく) (2004/9月トンボ会報) 「花に明け 山に暮れけり 水の音」 これは郷土の俳人、茂木秋香の句である。この句碑は景 勝地玉淀の鮎料理で有名な割烹「京亭」の近くの道端に凛として立っている。それは時折り、荒川沿いを散歩する私の目を楽しませてくれる。書も当人のもので豪放磊落、直接お会いしたことはないが、まさに大人(たいじん)の風を持った人柄を髣髴とさせる。私がどうしてこの句を紹介するかというと、寄居の佇まいや風景をそれは、まさに言い得ているからであり、寄居の魅力を余すところなく表わしているからである。春になると桜が、夏は百日紅の、秋は萩、冬は福寿草の花々。西を望めば外秩父の山並の穏かな稜線が心を和ませる。目を下に転ずれば荒川が瀬を洗っている。こんな当たり前の里山の自然こそが、この町の財産だと思うからである。このたび東松山のSさんから、東上線に座席指定特急「スペーシア」を走らせるというプロジェクトへの協力依頼があった。「都市と地方」の交流こそが、これからの成熟化社会に不可欠であるとの自論を持つ私は、即座に快諾をした。しかもその運動が単なる圧力団体的なものでなく、沿線の主要な地域のまちづくりを通して、自然発生的な実現化を目指している事も大いに共感を持った。それから学生時代、東京からの帰路、玉淀の鉄橋の上を走る東上線の車窓から見る寄居の風景こそ、冒頭の句そのものであったからだ。その鉄橋が、老朽化のために寿命が尽きた時点で取り壊されるという噂を聞くにつけ、このスペーシア運動に参加することは私にとっても焦眉の課題になった。ぜひこの運動が燎原の火のごとく各地で盛んになる事を願って止まない。 「ひき21」コラム欄への寄稿 2004/5/1 「平成の大合併」それは全国3,200自治体にとって焦眉の課題である。ここ寄居町でも来年の3月の新市の建設に向けて、いよいよ佳境に入っている。さまざまな紆余曲折を経て今は、深谷市を核にした1市4町の法定合併協議会から寄居町が先行して離脱することが決まり、まさに合併協が解散目前にある。私自身、昨年から文化、風土の違いから、深谷市との合併は如何なものかとの立場に立って、さまざまな活動を展開してきた。任意団体である「寄居町にトンボ公園を作る会」の代表という立場にありながら、一見政治運動まがいの活動を行うのに、いささか躊躇する向きもあったが、自然を愛するからこそとの信念をもってここまでやってきた。そこで一応、当初の目的が達成されようとする今、これからどんな地域(まち)になって欲しいかを記しておきたい。 寄居が将来どんな町になって欲しいかといえば、小さくてもいいからキラリと光る町になって欲しいと思っている。それから以前、アメリカの話しだが、おもしろいことを聞いたことがある。それは、アメリカの地域研究者が書いた「The 100 best small towns in America」というアメリカを代表する100のスモールタウンについて書いた本の話しである。あちらもこれまではニューヨークやロサンゼルスやシリコンバレーなど大きな都市が注目されてきたが、今はスモールタウンが注目されているという。その本の著者たちがベスト100を選定する基準には7つあるという。第1に環境、第2に教育、第3に産業基盤、4、情報ネットワーク、5、健康、6、25歳から30歳半ばくらいの若者が生き生きとして町のために活動していること、最後に、気の置けない、よき隣人の存在だという。これから成熟社会になっていく日本も、大いに参考になる事柄だと思う。またこれらの多くが寄居にあてはまらないだろうか?私はこれを聞いたとき非常に共感し、将来の地域(まち)もこうあって欲しいと思った。 今回の合併運動が、単なる既成路線の破壊のみに終わってはならない。合併後、必ずしもバラ色ではない状況を認識し、住民も自分たちでできることは、自分たちでやるという気概を持たなければいけないと思う。当会のようなボランティア団体やNPOの真の出番はこれからである。 (2004/3月号 トンボ公園会報) この夏、「荒川源流ツアー」という埼玉の母なる川、荒川の源流を探る小旅行に参加した。ご承知の通り、荒川は埼玉、山梨、長野、三県にまたがる日本百名山「甲武信ケ岳」に端を発し、首都東京まで、170キロに渡る大河である。 企画をしたのは「あらかわめっせ」という、荒川を寄居町のアイデンティティと考える若い町づくりグループである。かつて、荒川の支流「風布川・日本水」が日本名水百選に選ばれたのを機会に、全国の百名水を集めるイベントを開催したり、第7回を迎え、ますます盛んになる「荒川いかだ下り」を最初に提案した会である。 かねてから、会の名称に荒川を掲げているからには、一度源流に行ってみたいとのことから、今回の企画が持ち上がった。私も、会員のひとりとして参加しようとしたところ、この年になって何の準備もなく甲武信ケ岳に登るのは無謀だと、周りから言われ躊躇したのだが、いろいろ研究をして長野県側から登ると、比較的楽だということになって今回の挑戦になった。 甲武信ケ岳のふもとまでは、千曲川上流の沢づたいの比較的緩やかな道のりで、下界は36℃という強烈な暑さを尻目に、渓流の爽やかな水の音と、ふんだんなマイナスイオンの中、平均温度20℃という快適なトレッキングであった。 しかし最終ポイントの山頂前の小一時間ほどになると強烈な急勾配で、それこそ来たことを一瞬、後悔したものだ。しかし山登りでよく言われることだが、その苦労の後の登頂の達成感と、爽快感はなんとも言えないものだ。 さらに荒川源流にまで到着した際の一杯の水は、これまで飲んだものの中で一番、美味しく感じた。この美味しい水がどうして、あんなにも不味くなるのか、つくづく人間と自然の関係を考えさせる旅であった。 啓蟄も過ぎ、日一日と春の足音が聞こえてくる今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか?今年はとみに桜の開花も早いとのことで、この会報が皆様のところへ届く頃には、もう花が咲いているのではないでしょうか。 21世紀のスタートの年も激動のうちに過ぎ去っていきました。私も早いもので新井さんから当会の代表を引継ぎ、2年を過ぎようとしています。相変わらずトンボの種類も良く覚えられない頼りない代表ですが、皆様方のご協力によりなんとかここまでやってまいりました。振り返りますと、特に目新しい事はやれず、既設のトンボ公園の維持管理に終始してしまったような気がします。しかし一方で、より強力に当会のもくろみを推進しようと「むさしの里山研究会」が誕生したのですから、今後もその会とうまく連携をとりながらやっていこうと思っています。 その中でも少し新しい動きが出てきましたのでご報告いたします。これも小学校の国語の教科書に掲載されたためか、地元の学校の生徒やPTAの皆さん方と一緒に草刈りをする機会を得ることが出来ました。とくに一番大きなトンボ公園のある男衾地区では、草が驚異的に伸びる7月に、生ビールとバーベキューのイベントをしながらの草刈りは大成功でした。また今年も行いますのでよろしくお願いいたします。 それから、秋に「トンボ公園音楽祭」と銘うって、寄居の市街地商店街の人たちも参加しての新企画を催しました。環境問題に理解の深いプロのミュージシャンの方たちにも、ほとんどボランティアで参加していただきました。音楽は立場の違いや年齢を越えて、お互いの理解を深めてくれます。今までは当会に関心を寄せてくれなかった人たちも、たくさん来ていただくことができました。このトンボ公園の活動の裾野を広げるいい機会ですので、これからも継続していきたいと思っています。 自然に対する思いに共感して、心から作業に協力してくれているモンゴルの青年たちも、今では大分日本語もうまくなり、当会になくてはならない存在になっています。冗談ですが、彼らが帰国してしまうのが今では怖いくらいです。これも副産物ですがトンボ公園が国際交流に役立っています。一部の仲間内で、いつかモンゴルツアーを計画しようと言っています。 新年度にあたって、特に思う事は、幹事をはじめ会員さんたちの若い世代への広がりについてです。この点を特に今後の課題として、取り組んでいく必要を感じています。<若い人に魅力のあるトンボ公園>これを新年度のスローガンにして頑張っていきたいと思います。皆様どうか今後ともご支援、ご協力をお願い申し上げます。(2002年3月トンボ会報) いまだ残暑の厳しい9月中頃、モンゴルへ行く機会を得た。 きっかけは旅行の達人のH氏の「モンゴルに星をみにいこう」というなんともロマンチックなお誘いに、司馬遼太郎の「街道を行く、モンゴル編」の須田克太画伯による迫力のある挿絵の満天の星を私も是非見たいという衝動に駆られたのと、偶然にもこのたび、かの地から私の工場に研修生を受け入れてくれないかという話しもあって行くことになったのである。 ![]() モンゴルは地勢的なことから長く共産主義国家であったが、いまでは経済的理由から急速に日本との関係を深めている。空路降り立ってみての第一印象は、顔かたちも日本人そっくりで、親しみやすい笑顔で迎えてくれ外国という違和感をぜんぜん感じさせない。1000メートル級の高地で夏は涼しくて快適である。 首都のウランバートルも小粋なロシア風の町でよかったが、なんと言ってもかの地の魅力は郊外である。まさしく1000年も前からの遊牧生活は今もそのままで、それこそ電話もない、電気もない、テレビもないというふうである。見渡す限りの大草原で、「草原の記」によれば生えている草はニラの一種で、ハーブのような芳香を発している。そんなことからか、それを食んでいる家畜の糞はぜんぜん臭くないのだ。またそれは乾燥させて貴重な燃料になっている。当然その家畜の肉も、においがなく心配した食べ物も違和感なく食べられた。 羊の細い毛をフエルトにして作った彼らの移動式住居のゲルにも泊まることができたが、私たち客のために彼らは外に寝るという心からのもてなしは、大感激であった。 もうひとつの発見は騎馬民族である彼らと、馬の関係である。わたしもかのモンゴル馬に半日乗る機会を得たが、サラブレッド等に比べ決して、格好のよいものではないが何か人格(馬格?)をも内包しているような不思議な心の交流をした。子供たちと戯れる馬たちを見ていると、それこそ人馬一体なのである。わたしも別れるとき動物以上の感慨にふけったのは決して偶然ではない。 これも後で聞いた話しだが、かつてベトナム戦争で拠出されたモンゴル馬の1匹が戦争後、モンゴルに帰ってきたという話しは、今では私は信じられる。なにか、かの民族と馬の関係は特別のものがあるのだろう。 とにかくエコロジー生活を絵に描いたような彼らの生活は、便利さに慣れきった私たちの生き方に少なからぬ問いかけをしているようである。 平成元年3月に発足した当会も、早いもので満十一才になった。思い起こせば新井さんに出会ったのは今から14、5年前になる。お互いまだ30代半ばの血気盛んな頃で仕事、町づくりにと全力投球の毎日であった。最初の新井さんとの共同作業としては、第14回目をむかえた「寄居夏期大学」の講師として「トンボ採りの楽しさを次代に」という講演をお願いしたときであった。それは、それまでおぼろげながら寄居の町の財産はこの「あたりまえの自然」だと思っていた私に、彼はトンボという生物の専門的視点から、さらにそれを深めてくれた。それは私にとって、日常的な都会へのコンプレックスを痛快に打ち砕いてくれた。そんな彼との寄居の自然にたいする共感は「トンボ公園づくり」へと進むのに多くの時間は要しなかった。 以来、彼のトンボに対する熱狂的な情熱にひっぱられてここまでやってきた。もちろんここまで来るのにはそれこそ、たくさんの支援者がいたおかげであることは言うまでもない。特に特筆したい人は私と一緒に副代表をやった布施さんと中畝さんだ。彼らの無私で献身的な行動は多くの勇気と推進力を会にもたらしてくれた。しかしお二人とも今は故人になられた。あらためて心からのご冥福をお祈りしたい。 ところで世はまさに環境(エコ)ブームである。発足当時はトンボ好きの暇人が休耕田の原っぱで子供と遊んでいるくらいにしか思われなかった当会もさまざまな局面で、市民主導型の環境保全団体として注目をされて来ている。当会もボランティアの会だから、という甘えも時には許されなくなってきていることも事実である。そんな時代の移り変わりの中で前回の会報でも触れられていたが、このたび新井さんが新たに「むさしの里山研究所」というNPO法人を立ち上げた。当然、代表には彼が就任したが、そんないきさつからトンボ公園の代表は私にとのことで相談があった。もとよりトンボのことについて、専門的な知識のない私ごときが、その器ではないのだが、他の幹事さんたちのご推薦もあり、お受けした次第である。お受けした以上は一生懸命やろうと思っているが、とにかく皆様方のご支援、ご協力を切にお願いするものである。 このたび、わが母校「熊高」で表題について皆さんがたの前でお話しをさせていただけることを、大変光栄に思っています。 まず自己紹介から入りたいと思いますが、私は昭和二十四年に、一女ニ男の長男として寄居町に生まれました。慶応大学工学部機械工学課を卒業後、ただちに潟Vバサキ製作所に専務取締役として入社し、平成六年より代表取締役に就任、現在にいたっております。 弊社は私の父が創業者で、戦後外地より帰還後、戦中身に付けた機械技術で近在の農家の農機具等の修理、改良などをしていました。その後高度成長経済に併せて、自動車部品の製造を始め現在にいたっています。いちがいに自動車部品といっても一台の車には、二万数千点の部品がついており、当社はそのうちのエンジン、ブレーキ、サスペンションといった重要機能部品を作っています。お客様としては間接的ですがトヨタ、日産、ホンダといったほとんどの自動車メーカーに納入しています。 私が入社したのは先ほども言いましたが、大学を卒業してすぐの二十三歳のときでした。本当はニ、三年、外で修行をしてから入ろうと思っていたのですが、家の事情でやむなく入ることになりました。当時は社員数も三十名ほどの小さな会社で、組織も人事もあってなきがごとくでした。私も肩書きは専務ということで入ったのですが、納品係、品質管理、生産管理、総務経理関係等々、それこそ一人で何役もこなさなくてはいけない状態でした。入社して十年ほどは、そんな状態でやっていましたので、一時は何のために大学まで出てこの会社を継いだのだろうと思ったこともありました。 そうこうするうちに、当社の創業三十年目にあたる昭和六十一年のときでした。私も入社以来十二、三年が過ぎ、そろそろ後継者としての自覚と責任も嫌が応にも持たざるを得ない状況にありました。また巷間、企業三十年寿命説などが喧伝されているときでもあり、私としてもこれを機に、これまでの様にただ周囲の状況に振り回されるだけでなく、企業としての基本的基盤や理念、方向性というものを、はっきり決めるべき時であると考えました。そこで考えついついたのが「みなもとクリエイション」というスローガンでした。つまり企業の使命(存在価値)はお客様、社員、地域のすべてに関わる人々の幸せづくりにあると考えたわけです。そして常に創業の原点を忘れることなく、チャレンジ精神とチームワークを大事にして、会社経営にあたろうとの私の決意の現れでした。それは後に当社の社是となり、わかりやすく三つの柱に言い換えました。第一は、「経営の原点は顧客の創造にあること」第二は「幸せの原点はよき家庭の創造にあること」第三は「企業発展の基盤は地域と共にあること」としました。 それから十数年経ちましたが、その間のバブルの崩壊による未曾有の不況の中でも、常にこのことを念頭においてどうにか厳しい局面も乗り切ってきました。 皆さん方もこれからどんな職業に就くかわかりませんが共通していえることは、やはり同じやるにもしっかりした理念と哲学を持ってやって欲しいと願うものです。 最後に、最近思うことを追記させていただきます。 かつてパックスブリタニカとして世を謳歌していたイギリスが老大国化し、巷には失業者があふれ、一時極度に社会が疲弊したときがありました。それを救ったのが、幾多の規制緩和を乗り越えた金融業界だったと聞いています。まさに、かの国の産業革命以来の大転換でした。またその後、パックスアメリカーナを謳歌していたアメリカの場合でも、第二次産業の不振による大失業者を救ったのが情報通信産業でした。ことさら歴史の紐をとくと気づく事は、かの国々のすばらしい点は、常に苦境の中においても新しい産業の芽を芽吹かせていたことです。一方、この日本においてはどうか。バブル崩壊以後、十数年経った今においても、新産業が確立できない現状に関して、おおいなる危機感を感じます。もちろん、政府の政策の貧困さも理由に挙げることはできますが、ここ一点、皆さんのような若い人に期待するところであります。失敗を恐れず、前例に囚われることなく勇気をもって、新産業確立のために人生をチャレンジして欲しいと願うものです。(おわり) Q&A Q いつ頃、今の職業を決心したのか? A かつて、物ごころつく時から,父より人間なにかひとつでもいいから自分はこのことでは、他人に負けないものを持てといわれた。一番でなくてもいい、お前ならではの、お前にしかできないことを目指せといわれてきました。今の言葉でいえば「ナンバーワンより、オンリーワン」ということでしょうか。その頃から物づくりが好きな私は自然と家業を継ぐ気になっていたような気がします。 Q 今の仕事で一番つらいことは何ですか? A 企業の第一の使命は継続的発展です。絶対つぶしてはいけません。本来、技術屋である私は財務関係が不得手です。お金勘定(資金繰り)が一番つらいです。 (PTA主催、生徒進路指導講演会にて/1999/12/18) 2000年問題も、泰山鳴動してネズミ一匹出ずといった、若干拍子抜けした感じだったが、いずれにしても大過なく新年を迎えられたことは喜ばしい限りである。しかしこのことは今後の国家的見地や、企業責任においての危機管理の重要性を鼓舞した効果は大きかったのではないだろうか。ある知人の言われることには、十干十二支的に今年を占うと自然災害の起こる可能性が非常に高いそうである。昨年、台湾にて大きな地震が発生したが古来よりその後は日本というのが定説(?)だそうである。阪神大震災の記憶も覚めやらぬ今、心しておくべきであろう。 昨年の暮れ、あるトンボの幹事さんと2000年問題が話題に出たのだが、そのとき私は冗談半分に彼に言ったものである。 「もしライフラインが止まったら、このトンボ公園に来るといいよ。水についてはガッチャンポンプ付の井戸があるし、トイレもバクテリア分解式のバイオトイレ、泊まるところはインディアンテント、多少の火の気なら山から焚き木を調達してきよう。明かりはソーラー発電だ。ここは農家の人たちとの連携も取れているので食料も何とかなるだろう。」 トンボ公園作りに併せて、現代の大量消費型のライフスタイルに一石を投じるべく整備してきた「エコリサイクルパーク」の存在が、にわかにクローズアップしてきたのである。しかし到底、収容人数には限りがある。そこで続けて私は言った。 「Kちゃん、何かあったときここに入れる人たちの人選は、草刈り(トンボ公園)をやった回数順にしよう。」 もちろん冗談だが、なにごとにも文明の利器に慣れきっている我々にとって考えておくべきテーマではないだろうか。 ジャズと自然保護、この一見、脈絡のない関係を結び付けたのが”水”と言ったら少し唐突だろうか。今回のポール・ブレイの来日にあたって多大な貢献をした藤井郷子は地元熊谷の出身であり、彼女の自然環境への深い理解は我々をして、そのコンサート開催の協力を惜しむものでは決してなかったが、それ以上に師弟関係にあるブレイと彼女とのピアノ・デュオ「Something about Water」という CDを聞いた時、その機運は一気に盛り上がった。まさにこのコンサートのサブタイトルが「あらかわジャズ・チャリティコンサート」と決まった瞬間であった。 日頃、ボランティア活動を通してふるさとの自然環境を考えている我々は、とかく日常に埋没しそうになるその小さな運動と、決してメジャーとは言えないジャズとの共通項に、地下水脈のようにつながったエコロジカルな関係を見い出したと言うのはいささかこじつけにすぎようか。しかし、その趣旨に快く賛意を表し、ご後援いただいた県内52団体からなる「荒川流域ネットワーク」と「建設省荒川上流工事事務所」には心から感謝申し上げたい。 最後になりましたが、公私共にお忙しい中をこのコンサートにお出で頂きました皆様方に深く感謝申し上げるとともに、今世紀最後のミュージシャンズ・ミュージシャンと言われるポール・ブレイの素晴らしい演奏をお楽しみ下さい。 私は今、インターネットにはまっている。それまでなんとなく食わずぎらいであったが、いまではEメールの交換のために日に2,3度はパソコンの前に座らないと落ち着かないほどである。最近は高じて自分でホームページを作っている。規定の容量(5MB)をはるかに越えてのホームページづくりは完全に病気である。以前これをやり出すと完全におたくになると言われたがさもありなんと思う。 どうしてこうなったかというと、すこし大げさかもしれないが、私はまさにこのインターネットこそが、様々な現在の閉塞状況を突破する有力なツールのひとつであると思っているのだ。まずその理由として、それが情報交換に関して、時間と距離の超越を可能にしたことである。私ごとになるが、現在私の弟は米国に赴任中であるが、彼とのコミュニケーションもたったの10円で可能だし流行のデジカメを使えば瞬時に家族の写真も送ることが出来る。時差の点でも夜、昼の関係からかえって日本にいるときより反応が早いくらいである。 最初、軍事目的で開発されたこのインターネットは、今では学術研究やビジネスなど利用範囲が拡大され、その利用者とデータの膨大さは目を見張るほどであるが、米国に比較すると日本での本格的な普及はまだまだこれからであろう。当初は企業向けが主であったホームページも、今では個人用のほうがより魅力的でおもしろい。最近それを利用しての暗部も指摘されてはいるが、文明の利器の諸刃のやい刃的なところは歴史の照明するところである。これからは個人的にも益々ホームページを持つ人が増えてくるであろう。そのうち名刺の下にそのURLのアドレスがないのが恥ずかしいことになるかもしれない。それくらいメディアのツールとしては安上がりだし、コミュニケーション手段としての無限の可能性を秘めている。 とにかくこれまで、一部のマスコミに限られてきた情報の発信が、いとも簡単に個人レベルで可能なのは言うまでもなく、その自己表現と自己実現の対象は世界中の人達へと広がっているのだ。物への欲求に限界を感じ始めている現代人にとって、その見知らぬ人達との予期せぬ出会いはなんとスリリングで豊かなことであろうか。私はこれまでの発明と発見は、人と人との交流によるインスピレーションの発露にあると思っているが、実はこのことが現在の閉塞状況突破の可能性をこのインターネットに見ている大きな理由なのである。 ちなみに私のURLアドレスはhttp://www.c-5.ne.jp/~sobasaki/ です。皆さんおおいに交信しましょう。 栗原幹事さんの作ったトンボ公園のホームページに刺激されて自分でもつくろうと思い立ったのが3ヶ月まえのこと。以来、根が凝り性なもので参考書を漁って取り組んでみた。これは最高におもしろい。これまでもインターネットにはまってご夢中のところ、さらに火がついてしまったようだ。いまでは通常の規定容量をはるかにオーバーして友人には仕事をしてるのかと心配されるほどのめりこんでいる。 これを始めると完全に「おたく」になると忠告されたがそうなるのも無理からぬ事だ。しかしこれほどではないにせよ21世紀の新しいツールになることは間違いない。そのうち名刺の下側にホームページのURLアドレスがないのが恥ずかしい事になるだろう。それくらいメディアのツールとしては安上がりだし、コミュニケーション手段としての無限の可能性を秘めている。 ちょっと気恥ずかしいが、ちなみに私のホームページのタイトルは「ある地方都市のまちづくりおじさんの軌跡」という。まさにこのトンボ公園の活動を含めた私のボランティア(まちづくり)運動の四半世紀における記録である。まさかホームページを作るために活動をして来たわけではないし、過去を振り返るのはまったく性分ではないが50歳をひとつのくぎりとすれば良い反省記録になったと思っている。 調子にのって、ある知り合いにもこのホームページづくりを薦めたら「俺にはそのテーマがないよ…。」と言われてしまった。そうだ、これこそ現代人の欠けてる部分ではないかと思ったものだ。仕事に追われ、周囲に追い立てられ一度しかない人生を浪費していく。人生にテーマを持とう。いや、テーマのある人生をこそ最大の価値あるものとして各々の命が光輝くよう望みたいものだ。 back 水と人間、その関係はそのまま人類の成長の歴史であるように、寄居と水、そして荒川もまさにそうであった。荒川は、古来より貴重な水資源として、また寄居町民の心のよりどころとして、その姿を横たえてきた。しかし、時にはその名の通り荒ぶる川として我々の前に立ちはだかり、またその雄大すぎる容姿ゆえに、本来同一化すべき両岸の地域交流を困難にしてきた事も事実であった。こうしたさまざまな長所短所がまさにそのまま当地の特徴をかたちづくってきたことは周知の通りである。 『荒川で泳げなくなったのは何時の頃からだったろう。』と誰からともなく言い出したこの言葉がわずか二ヶ月間で全国名水百選の水をあますところなくこの寄居の地に集め、最前線で活躍される先生方によるまちづくりシンポジウム『あらかわめっせYorii 21 水おこし、寄居(まち)おこし、人おこし』を開催させることになろうとは、一体誰が予測できたろう。それはまさに偶然の積み重ねで始まった。いやむしろ時代の中で堆積し、表出すべき必然の結果だったのかもしれない。それら不可思議な数々のエピソードは、霊水といわれた『日本水』の賜物と感じたには私だけではあるまい。 いずれにせよ我々のまちづくりの第一歩はここに記されたのである。今でも鮮明に覚えている。このイベントの後仲間の一人がつぶやいた。『今までと同じ町並みなのに輝いてみえる・・・。』あらかわめっせの活動の原点がそこにはあった。 『寄居町に荒川博物館がやってくる。』当時アイデンティティ・クライシスが言われていた。水と荒川を寄居の心棒におこうと考えていた我々はその情報に歓喜した。どこの町でもそうであったように、寄居も時代の流れに乗り切れず、経済的にも再活性化が叫ばれていた。経済と文化、この一見相容れぬものの融合を試みようとした。またそれは民間と行政との関係の融合の壮大な実験でもあった。また一方、政治の難しさも体験した。その結果が『荒川博物館基本構想』の提案書に結実した。 『まちを愛する事はまちを知る事だ。』イベント、基本構想の提案書づくりとやつぎばや活動の後に、停滞感を感じていた我々は、寄居町在住の人や寄居町と深いご縁のある人たちからさまざまなお話を伺う事によりまちづくりの新しいテーマを模索しようとした。四十数名にのぼる講師の先生方の真剣な中にも時にはユーモアを交えたお話の数々に、その都度我々は大いに触発され、啓発されそして何よりも勇気づけられた。 そして今・・・。日本全国で3300自治体があるそうである。その各自治体にどのくらいの民間グループがあるのだろう。そのあまたある団体のなかから『あらかわめっせ』が自治大臣表賞に選ばれた。飛び上がる程の嬉しさの反面今後の責任の重圧に押しつぶされそうになる。しかしまた十二年前のイベントの最終章での子供たちに夜祭り太鼓を思い出そう。そして頑張ろう。未来のふるさと(寄居)は彼らのためにあるのだから・・・。 今、そば打ちが静かなブームだという。私もその魅力にとりつかれた一人である。口の悪い仲間は余りの懲りように、私の事を「シバサキ」ならず「ソバサキ」と呼ぶくらいだ。其のわけは、若い頃からの無類のそば好きが高じての結果なのだが、そばのうまさは何といっても「挽きたて」「打ち立て」「茹でたて」の三たてにあり、まさにそれを実践するための自前のそば打ちなのである。 今では庭の踏み石になっていた石臼を仕事のノウハウを活かして自動化し、玄そばを碾きぐるみしている。それにつなぎとして少量の小麦粉を混ぜ、水でこねる。分量は両手で覆えるほどの練り玉にしている。それは手のひらから出る情熱がそばに通じるような気がするからだ。それを麺棒で薄く伸してきる。切り口がふぞろだと茹で上がりがむらになるので、できるだけ均一に切る。そして冷水ですすぎ、特製のつゆで食す。このつゆもそば打ちを始めて以来熟成させている「かえし」を元に作ったものである。時折、新そばの会なるものを開いて友人たちに食べてもらっているが、すこぶる評判がよい。
私が 今年、年男の私はいわゆる団塊の世代の人間である。寄居町は、町の真ん中を荒川が流れているために私の子どもの頃、夏といえば「川に泳ぎにいくべえや」と2、3才違いの仲間たちと連れだっていつも荒川へ行ったものである。寄居の荒川は典型的な中流域の様相を呈しており河岸段丘になっているため町のさらに低い所を流れている。そのため帰り道が急な上り坂になっていて、川遊びに徹底的にエネルギーを使い果たしてしまった我々はそれこそ息も絶え絶えになって家路に就いたのを今でも鮮明に憶えている。 それでも波久礼にダムができたり、とくに東京オリンピックの頃からだったろうか、川の砂利が採取船でどんどん取られるようになって川の様相も徐々に変わっていった。ときには砂利が取られて急に深くなっている所であんぶく(おぼれる事)しそうになって必死にもがいたこともあった。その時見た水中からの光景はきらきらと輝いていてまるで天国の後光のようだった。そんな時はきまって上級生や仲間の誰かが助けてくれた。 つまりは、我々の子どもの頃の事を思うと「あらかわ」と「ふるさと」は同義語であったのだ。そんな思いをもう一度我々の子供たちに味あわせてあげたい。いつも岸辺や橋からしか川の見る事のできなかった子供たちに一度でいいから川の中から反対方向からの景色を見せてあげたい。こんな思いの重なりが荒川いかだ下りというイベントの原点であった。そしてそれがとうとう実現した。 夏休みに入ってはじめての日曜日の事である。3そうの手作りいかだと、一隻のゴムボートで名勝玉淀から正喜橋の下をくぐり、東上線の鉄橋を見上げながら岩崎河原を通り、今年8月オープンする「さいたま川の博物館」のかわせみ河原まで、行程約2.5キロの時にスリリングな時にはゆったりとした川の流れに任せての約2時間ほどの川下りであった。同乗した息子も初めての経験に感激したようである。私も「これは行ける。来年からはもっともっと皆に呼びかけて盛大な行事にしていこう」と思った。 夢はもっともっと膨らむ。いまではこの思いを荒川流域全体で共有できたらと思っている。今年はまだ無理にしてもいつかは秩父から東京湾の河口まで地区別リレーで川下りをやってみたいものである。 空き店舗対策について 投稿者:そばさき 投稿日:99/03/18(木) 07:15 寄居町で空き店舗対策のため補助金を出して人の溜まれる 場所を作るそうだ。グッドアイデアだと思う。 八百源と言うお豆腐屋さんの前があいていると言う。 よりいの駅から荒川へいく途中のお休み所、ミニギャラリー とかで利用したら面白いと思うのだが、大通りに面していない ので補助金対象に成らないとの事。なにかいいアイデアはない ものですかね。 コメント投稿者:kunchan 投稿時刻:99/03/19(金) 16:49 地方商店街の悩みといえば、最大の問題点は「ひと通りがほとんどない」ということ。フラっと立ち寄って,「お店」というステージで「出会い」という感動を味わう。とても素敵なことなのにあまりにも人がいないというのが悩みの種です。 空き店舗対策・・・先日行政から説明があったように、補助金でモデル店舗をとりあえず?作り、運営方法、マーチャンダイジング 集客方法などを実施モデルケース化してみるのも一考かと思います。ただ今後寄居の商店街を見渡せば「やばい」・・・、空き店舗やシャッターを下ろしてしまうお店が増えていく可能性が強い。 長期ビジョン・・・500メートルから1000メートルに及ぶ寄居町商店街・・・「商・住」混在商店街づくりのコンセプト明確化する。セットバック事業も補助金の枠を広げ隣が空き地になって店の側面が丸見えになった店にも改修費等を補助する。さらに、商店街に連なる「路地・路地裏」の保存と創出も街づくりのテーマとして補助金対象にしていくことも必要かと思われます。 こうすることによって「線」から『面』への展開が容易になるかと思います。柴崎さんご提案の「武町スクエア」「パティオ武町」づくりに通じるかと思うのですが。また、上記のパティオは古くからある 「町内意識・村意識」のシンボルナイズされたものとして、小さな 「拠点」づくりにも一役かうのではないかと思うわけです。 本日,午前午後仕事の合間にアクセスしましたが2997と3003でした。残念。悔しくてメールつい長くなりました。
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