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| @U ターン青年達の異議申し立て | A ヒューマンネットワークづくり |
| B「ふるさと懇話会」の発足 | C 「手づくり」から「手応え」へ |
| D 町づくり・・・点から面への構想 | E 「活動」から「運動」へ |
(望月照彦 著:ビジネス・ファイターの戦略発想より抜粋)
(写真:岩田省三)
「寄居町にとって、この夏はいつもの寄居と色合いが違う事を、予感する。1972年10月、私たちはある危機感とあせりに似たものと、あきらめにも似たたあるカタルシスをもって町の一角に集合した。私たちにとってそれは偶然なものであったにせよ、町を考える若者にとっては、唯一の必然的に表出した若者のスペースであった・・・。」
行間から、やり場のない腹立ちと一方では若者だけが持つ いい意味の不遜さといおうか、そういうものが伝わってくる。
ある町作りの問題意識や行動が生まれる、そのモチベーションが、直截に語られてはいないだろうか。これは、埼玉県寄居町に住む若者たちが中心になって起こしたイベント「寄居夏期大学」のパンフレット巻頭の文章である。今でいうコミュニティカレッジの、その先駆けを成した試みであり、以来現在まで14年間続くのである。「このカタルシスでえらい騒ぎをしたんですよ。使った方がいいか、使わない方がいいか。二晩かかったね。仕舞いにはカッタルクなっちゃってさ」「気負って気負ってほとばしり出たんだけど、覚えた横文字をひけらかしたいという、若さの象徴でもあるわけですよ」
「カタルシスという言葉、いまだに共通語になっていない。カタルシスって何なのか、議論されてないままさ」と話すのは、その張本人だった人たちである。
ごくありふれた地方の中小都市のまちづくりに関った3人の若者・・・いや、今や40歳に手が届きそうな団塊の世代の軌跡を、個人史的な形でたどってみたい。
というのも、この町の場合、本当のまちづくりは、昭和61年の今、始まろうとしているからであり、これまで費やされた時間は、個々人がそれぞれの”町
”を抱え込んで試行錯誤し、それをエネルギーに変えるに必要な年月だったからである。
昭和45年、大学の建築科に学ぶ一人の大学生が、東京を引き払って、故郷の埼玉県熊谷市に戻ってくる。
彼、時田芳文さんは、東京で”アトリエ・木偶(でく)”というグループを組織していた。ちょうど大学闘争がピークを迎えていた頃で、キャンパスには「大学に頼らない自己表現」の気運があふれていた。「木偶」もまた個人的な闘いのひとつの形だったのかもしれない。
建築以外の若い仲間を集めて「ワイワイと」やるのだが、エネルギーが空転する空しさがつきまとった。活動を青春のロマンで終わらせたくないという思いが、「木偶」をそっくり生まれたところに移させる事になる。
しかし、帰った熊谷の町は自分にとっても「惨澹たる物」であり、「若者たちが心地よくいられる風景」が存在していないように思えたのだ。
再び、地元の若者を引き連れ、徒党を組んでは。イベントのプロデュース、ミニコミ誌の発行と「風景作り」に没入する事になった。
この頃、私(望月照彦)は大学の先輩であった関係で、彼の作ったミニコミ誌の原稿依頼をされ、以後、都市論・地域論などについてアドバイスをする関係を生み出していった。
時田さんが本格的に熊谷にUターンするのは卒業後である。父親の経営する建築会社にひら現場員として入り、2年後、独立する形で木造住宅設計を専門とする設計事務所を設立する。
時田さんが東京を引き払った前後、熊谷から秩父鉄道で30分ほど西に入った埼玉県寄居町に、やはり、東京の大学を出た二人の若者が帰ってきた。
自動車部品の製造業を営む柴崎猛さんと金物店を営む神田充王さん。柴崎さんと熊谷の時田さんは、高校の同級生で「双子に間違われるほど」気があった仲だったという。
「帰ってきた時、どうもどこか違うよな、という感じがしたんです。単純に言えばふるさと感の喪失というか。人間というのは、自分の出をはっきりしたいという帰巣本能みたいなのがあるでしょ。一番きついのは無宿もんといわれることですよね。確かに寄居という町はあるんだけど、そこで生きることを対象化できない、向かうべきベクトルが見えない。これじゃしょうがないと、もやもやした気持ちを抱えていた時に、偶然、神田さんに飲み屋で出会って」と話す柴崎さん。
神田さんにとっても、大学の4年間、寄居を外から見、そして戻った町は、自分を受け入れてくれるところではなかった。
「学生運動やって結局つぶされてね。それで自分が生活する場所をどうするか、ということに立ち返って、帰ってきたわけだけれど、はじめは無視されて・・・。でも、どうにかしたいという気持ちだけはありましたね」
Uターンという同じ状況のもとで、同じように自己アイデンティティの喪失感にさいなまれていた3人。彼らは、3人3様のフォームで、まちづくりのスタートラインに並んだのである。
寄居町は埼玉県の北西部にあり、東京から70キロ圏に位置する。前述した熊谷のアクセスのほか、池袋から東武東上線で90分、都下八王子からJR八高線で90分の距離にある。また、関越自動車道の開通で都心から車でも2時間で行けるようになった。
かつては鉢形城の城下町、次いで秩父街道沿いの宿場町として栄え、現在は秩父観光への玄関口として知られる。豊かな山林地帯を背景にして、町のほぼ中央を西から東へ荒川がゆったりと貫流し、その辺りはレクリエーション基地として人々を集めている。
人口は、3万2千人(昭和61年3月現在)で、産業は突出したものはないが、バランスの良い産業構造をもっている。しかし、関越自動車道をはじめとする道路網の整備により、宅地開発や工場誘致が進み、今後は人口の増加や、地域構造の工業化が見込まれている。
自然資源、歴史資源には恵まれているところであるが、周辺都市の都市化が進行する中で、囲い込まれるように、相対的に活力を失ってきたのが、ここ10数年の寄居の姿である。中でも商業は、熊谷市・深谷市の両商圏に侵食され、落ち込みが激しい。人々の生活にもっとも密着した商業の凋落は、町の文化や産業、ひいては人間の気持ちにまで暗い影を及ぼすのであろうか。
かつて大分県の平松知事は「怖いのは過疎ではなく、心の過疎だ」といったことがあるが、柴崎さんや神田さんが、あの時失望したのは、自信を失った町の人々の姿ではなかったろうか。
また、象徴的だったのは、彼らがUターンしたのが、時代のフレームが大きく変わろうとしていた、高度経済成長終焉の頃であったことだ。
日本経済の拡大と歩を合わせるように育ち、常にマーケットの格好のターゲットにされてきた彼ら団塊の世代が「そんなはずじゃない」と異議申立てをしたのは、考えれば皮肉なことだった。
「地方の時代」がいわれはじめるのは、もう少し後だが、彼らにはそんな言葉は、まやかし以外のなにものでもなかったろう。ひとたび、地域の外に出て、地方と中央の関係の構図をはっきり見てしまったのだから。
柴崎さんは、自分が関わった町づくりの推移を図に描いてみせてくれた。それは22歳の昭和46年から始まり、矢印は21世紀までのびていた。人との出会い、文化活動の経緯、そして通奏低音のように流れる自身のコンセプト、それらが互いに触発しあい、時にはアウフヘーベンしながら、大きな運動体へとそだって行った様子が良くわかる。また、それは社会環境の変化と不思議なほど符合しているのだ。
「意識して書いたわけではないのですが、こうしてみると、やはりひととの出会いが一番大きいのですね。これ以外にも何百人、何千人という人が関わってきている。完全にヒューマンネットワークなんですね。どんな運動体も歴史も、人が介在した時に、はじめて生きた現実になるんだなと思いました」
その意味で、同じ世代の彼ら3人の出会いが「偶然の必然」ともいえるくらい決定的な事だったと述懐する。
「私の意識ベースは、寄居を誇りに思う気持ちを皆と共感していきたい、そしてそれを私の子どもや孫にも継承したい、という以上でも以下でもない。それはずっと変わらない」
同じ気持ちを抱えて出会った柴崎さんと神田さんは「とにかく何とかしなくちゃ」と、30人ほどの若い人たちを仲間に引き込む。それが、昭和47年に、そくたく会の結成につながるのである。
そくたくとは”そくたく同機”という禅の言葉で、雛が卵から孵る時、雛は中から殻を破ろうとし親鳥はその気配を感じて外からそれを助ける、そして機を同じくして互いのくちばしが相合さって殻が破れる・・・という意味なのだそうだ。
若者たちを雛鳥にたとえると、親鳥がいたのである。森三郎さんと石沢義夫(無腸)さん。森さんは、元大蔵省のお役人で、その頃、勇退して寄居に戻ってきていた。石沢さんは今は故人だが、昔、男衾村の村長・県会議員を務め、蕉風俳諧を受け継いだ連句の達人だった。若者たちにとって森さんは父親、石沢さんは祖父のような存在になろう。雛鳥と親鳥の思いが重なって、そくたく会が生まれる。
森さんは自宅を開放して、集まってくる若者たちと古典を勉強したり、時には石沢さんが連句の手ほどきをする事があったという。
この二人の親鳥が、若者たちの漠とした意識を覚醒させたのであろう。とにかく町を知ろうではないかという事から、翌年、冒頭の「寄居夏期大学」の開催となるのだ。
パンフレットに石沢さんの言葉が寄せられている。
「森さんのところへ青年が集まって古典の勉強をしている。職業、環境を異にしながら仲良くやっているのは良い。この青年たちは、町の発展や将来についてよく意見交換をするとの事。古典愛好家がまちの発展を考えるという事は、次元の高い立派な発想である。新しく正しいものは、古く良き伝統の上に育つ事を知っているからである・・・」
神田さんは言う。「毎年読んでも、新しいんだよね。まちづくり運動の規範になると思うよ」
夏期大学は、寄居と深い関わりを持った市井の人をゲストに招き、話しを聞くというものだが、講師は町役場や林業試験場に務める人、熊谷高校の先生など多彩だ。この活動が求心力になって、また多くの人との出会いが重ねられた。
その中の一人が、岩田省三さんだった。岩田さんは、東京大手広告代理店のカメラマンで、12回目の夏期大学の講師として参加した。長年、寄居の風景を撮り続けてきた立場から「レンズを通した寄居町」を語った。岩田さんとの出会いも大きい意味を持つ事になったのである。
そくたく会と夏期大学は、当初は、若者たちの鬱積した気分を開放する”カタルシス”の作用を果たしたかもしれないが、結果的にはコミュニティカレッジのもっとも原初的な形を実現させたのであり、また町づくりの運動のシーズとしての役割も果たしたのである。
しかし、万事が順調だったわけではない。途中には存続の危機もあった。方法論の違いもあった。だがそれは、地域と自分、組織と自分をそれぞれがもう一度、考える機会を与えてくれたのである。
昭和59年の師走、寄居商工会青年部主催で行政との懇談会がもたれた。町長はじめ、役場の職員、農業青年会議所等の面々が集まった。
おりしも当日は、秩父夜祭りの直後で、誰からともなく、寄居にもあんなふうに町民総出で盛り上げられる祭りができないものか、という話題になった。
それがきっかけとなって、話題は寄居のまちづくりに移り、どうも寄居は町民意識がバラバラではないだろうか、なにか町民が共有できる組織体なり話し合いの場が出来ないものか、など意見が相次いだ。
そこで町長から「このままいい放しで終わるのはもったいない。”ふるさと懇話会”という会をつくったらどうか」と提案がなされ、全員が賛成したのである。
翌昭和60年2月偶然の事から私は商工会青年部の講演会に招かれ、初めて寄居を訪れた。柴崎さんとは、時田さんを介して交流があったのだが、寄居に私を呼んだのは、私の著書「商業ルネサンスの時代」を読んだ青年部・部長の名阪豊章さんだった。これもまた「偶然の必然」が糸を引いたのではないだろうか。
講演会では、全国各地で目下繰り広げられているまちづくり運動の最前線の模様を話した。出席者は少なからず刺激を受けたようであった。私もまた寄居のふるさと懇話会に非常に共鳴を覚え、支援を約束した。
しかし日が経つにつれ、ふるさと懇話会結成の気運は盛り上がったものの、いつしか尻つぼみしそうな気配になった。みんなの中に焦りの色が浮かんだ。その年(昭和60年)の暮、柴崎さんら4人が私をたずねてきた。柴崎さんはその時の気持ちをこう語る。
「わたしと神田さん、名阪さん、津久井康雄さんの4人で、アメリカ帰りで多忙な望月さんに無理に時間を取ってもらって会いに行ったのです。あの柔和な望月さんが”君たちが今やらなくて誰がやるのか”と厳しい言葉を投げかけたのです。帰りがけ”何としてもふるさと懇話会を生み出そう。そして着実に仲間を増やそう。寄居の町にはそれだけの価値が埋もれているのだから”と発憤しましてね。今思えば、望月さんに会いに行こうという気持ちが、もうすでに我々の決意を表していたんですね」
年が明けて、発会に向けての準備会がもたれる。その席上、それぞれの持つ夢が語られた。ある人はまちづくり博覧会を寄居で開きたい、ある人は岩田さんの素晴らしい写真でカレンダーをつくろう、またある人ははだしで歩ける歩道を作って町のイメージアップを図ろうと。ひとりひとりがワンテーマづつの町作りをもって参集したわけだ。
そして「寄居をこよなく愛し、寄居に住む事に限りない誇りを持ち、我々の子供たちに自信をもって残せる町を作ろう」というコンセプトを皆で確認した。
さらに、各自がそれぞれの夢の実現の担当者であり、そのために協力し合って行く組織として、ふるさと懇話会を位置づける、という運動体のあり様を確認したのである。つまり最初に組織があって個人があるのではなく、あくまで個人が主体的に町作りに関る中でバックアップする組織がある・・・という考え方なのだ。
「組織と意識の問題は大きいですよね。組織が充実するとたいてい意識は後退する。意識があって、その意識の収斂するところに組織があるって考えた方がいいだろうね」と時田さん。
そしていよいよ昭和61年の7月5日、発会式の日を迎えるのである。町長、商工会長、観光協会長などをはじめ、業種・地域を異にする三十数名が参加。時田さんも熊谷から駆けつけた。当日、地に足がついた町作りを、という事で、結束式ならぬ結足式が行なわれた。全員で足型を巻紙に取ったのである。顧問役の私の足型を押す場所もちゃんと空けてあった。
行政・地域経済団体、市民、いずれの垣根も取り払った、運動体としては希有な組織の活動がこれから始まろうとしている。
「生みの苦しみ」は去ったが、さらに大変な「育ての苦しみ」が待ち受けている事だろう。
昭和60年は、寄居において「そくたく同機」が再び起こった年であり、まちづくり運動のエネルギーが、ある臨界点を越えた記念的な年であった。
柴崎さんは、60年の意味を更にこう付け加える。
「寄居の状況のみならず、熊谷の状況、地域の町づくりの状況、日本の状況、それらの歴史的な転換作用が全部、60年あたりに収束されているように思うのです」
私は、ふるさと懇話会発足に向けてひとつのコンセプトを柴崎さん達に示した。「手づくりの町づくりから、手応えの町づくりへの転換を」がそれである。
「手づくり」はある意味では観念的だが、「手応え」は運動体であり、寄居の町づくりは、今、質的にその飛躍を促されている、と判断したからだ。「手応えの運動」とは、ここ寄居においては何なのか。それは、「自由民権運動」ならぬ「自由民活運動」を、この地から興せという事である。この一帯は、明治の初め、中小の産業資本家や下級武士、農民層まで巻き込んだ自由民権運動の吹き荒れたところである。だから再び、新しい時代をきづくラジカルな思想と運動を興せと。
柴崎さんも、ポスト町づくりの運動の新しいコンセプトを提示する時が来ているという認識があった。
「かつて、地方の時代といわれたとたんに、我々は地方崩壊の時代を迎えていた。早く言えば、我々は放り出されたわけです。いまだに地方の時代にならないのはなぜか、良く考えてみる必要がある。
私は、60年あたりからの急激な円高というのは、日本人にあらゆる点で思想転換を迫るほどの歴史的な出来事だと、殊のほか重大視しているのです。町づくり運動にとっても、地域開発をダイナミックに、日本のアイデンティティとして推進する千載一遇のチャンスだと捉えている。550億円という莫大な貿易黒字、その資金還流を地域に向けさせるのです。社会資本の蓄積はまさに今しかない。資本還流のモデルケースを我々が作って行くのです」
そのためには、政治に関与する事も、外部資本とネットワークする事も、積極的に進めていかなければならない。彼は象徴的に「我々は強力に手を汚して行く必要がある」という言葉で、思いのたけを表現した。
柴崎さんのこの思いは、私の言う「手応えのある町づくり」「自由民活運動」と呼応するものである。
「手づくりから手応えへ」は私がよく口にする、「ボランティアからフロンティアへ」というキーワードとも重なり合うものである。
地域は、まだ本当は何も起こしていないのかもしれない。確かに、日本各地で勃興した村おこし・町おこしの運動は、多くの地場産品や、ユニークなイベントを産出した。しかし、それは、かつて長洲神奈川県知事が「地方の時代」という言葉を提唱した時に託した「現代文明社会の問題を解く」ほどのパワーを、まだ持ち得ていないように思う。
だが、この間、寄居や熊谷のように、全国でたくさんの町づくりキーマンが育った。彼らが、地域を越えて手を結び、地域が抱える根本的な問題など・・・をひとつひとつ解いていくことだろう。
そして、政治、経済、文化、生活、あらゆる面で人間の希求する質を持った社会形態のモデルが、地域でこそ実現される機が整ったとは言えないだろうか。その最短距離にいるのが、この寄居ではないだろうか。何故なら市民から行政まで吸引してしまう運動のエネルギーと、それを可能にした町のスケール感が、とりあえず保証となっているからだ。
「昭和60年を僕が意識するのは、既成組織の崩壊がはっきりしてきた事なんだよね、組織の中での役職能が意味を失い、それぞれAはAの、BはBの、役割能が組織を越えた。町とか時代をつくるということの中で、自分の役割を自分で判断し、その中で機能して行く、そして個人と個人の接点に新しい運動体が生まれる、そういう動きが汎社会的に出てきた先駆けの年だったんじゃないかな」
と語る神田さんは、ふるさと懇話会が21世紀の運動体のありようを問うたものだとみている。
「地域の運動体というのは、地の力(内発力)と外部的な力(外発力)、この二つがうまく絡む時、効率よくエネルギーが生まれると思う。片方ではダメ。僕は21世紀のコンセプトは”閉じつつ開く”事だと思っている。寄居も、ある状況を作り出す中で、閉じる事と開く事、両方の作用を抱えこまなくちゃいけないと思うんです。寄居は地の力があるから、閉じたものを無限に開いて行く運動が、その中で持てるんですよ。熊谷の場合は、まだぼくは信じているんだけど、ある意味で開きっぱなし、ひょっとしたら閉じっぱなしなのかもしれない。
望月さんは”閉じつつ開こう”としている地域、あるいは人間に対し、それを評価し励ましてくれる存在なんですね。望月さんはどんな町も実際は作っていない。しかし、運動を上昇させて行く”象徴”としての”触発人”であり、絶えざる”外発力”であり、その事によって作る事の責任を果たしているのではないか」
私の役割に対する評価はいささかオーバーだ。ただ、寄居での私の役割は、力を持った若武者達を勇気づけ、評価し、未来に向けてのベクトルを暗示する事までである。
「原域論は点の思想だと思う。一挙に点から面には行けないけれども、僕は点の思想を線の思想にしていきたいと思っているんです。”原域”の状況を広げていきたいなと。その意味で、僕の中では今”荒川”が大きなテーマになっている。荒川の川上に向かってどこまで辿って行けるだろうか。原域論のスタートは東京に対しての意識だったけれども、10年経って僕の中で東京は完全に漂白された。だから、今度は荒川を源流に向かって辿っていっちゃおうというわけです」
時田さんは、つぎのコンセプトは「原域」から「源流域」だと話す。荒川は、秩父の谷あいを縫うようにしてくだり、寄居のあたりからゆるやかな流れとなり、そして熊谷の南をゆったりと流れて行く大河である。柴崎さん、神田さんにとっても、荒川は原風景に違いない。
時田さんの荒川、柴崎さんの荒川、神田さんの荒川、それぞれの荒川を「原域」という共通項で串刺しにしていく事、そこから新しい町づくりの視界が開けてくるのではないかというのだ。
「僕は、荒川でうちの町の”未来を考える”シンポジウムをやりたいんだよね。荒川の河川敷で車座になって、ゲストで柴崎君や神田さんや秩父の人も参加する。そして次は寄居の荒川で”寄居の未来を考える会”をやるんだ。今度は僕ら熊谷の連中がオブザーバーで行く。さらに、秩父の荒川でも同じ事をやる。そうやって荒川ってなんだろうかと考える中で、いろんな形のネットワーク、あるいはネットワークを基盤にしたメッセワークを作っていきたいんですよね」
それぞれのうちに抱え込んだ、さまざまな”地域(原域)”を、荒川を介して鮮明にし、その中で共有できるものは共有していく・・・町づくりを面にして行く彼等の次の構想なのだ。
それはまた、私がかねてから構想していた「地域共和制」のひとつの形であり、3人の元若者にとっては、今度は、互いが同じゴールを目指すランナーであり、また伴走者となる姿でもある。
寄居のプロジェクトを特徴づける最大のものは「運動」あるいは「運動体」の在りようにあるだろう。
私がまず最初に注目したいのは、彼ら運動を担った若い連中が、大変にモノに感動的な人間であった事だ。彼らは私の経験や考え方を感動的に評価し、付いてきてくれた。ビジネスワークの中で今一番大切で、しかも欠けているもの、それはある種、感動して動いていくということなのではないだろうか。寄居の運動のモチベーションになったのは、他ならぬこの感動であった。
彼らは、たとえば、商店街の活性化のために”若大将シリーズ”というユニークな展開をしていた。それは、商店の2代目達が、それぞれ自分のコーナーを店の中につくって売り出しをするというものだ。
そういったさまざまな運動を主体的におこし、育てていたので、私の役割はその運動体を相対化し、論理的構造を与えていくといったことだけでよかった。
「自由民活運動」という提案は、彼らの運動をさらに大きくするために、用意されたフレームであった。これは思想運動とうよりもビジネス運動を地域の中でやっていこうということで、その点に面白さがあるのである。ビジネスはビジネス活動とかビジネス行為と言うけれど、決してビジネス運動とはいわれなかった。
運動体とビジネスとは無縁のところにおかれてきているが、たとえば地域経営という場合、そこで行われている事というのは営利を目的としたビジネス活動というより、人間をつくり、地域をつくり、未来をつくっていくという、ビジネス運動的な形を暗号としてもたないと成り立たないところがる。これからの都市ビジネスを考える時、従来の経営ノウハウでビジネスを展開するビジネス活動というのとはまた違ったアングルを持たないと、先が展望できない時代状況になってきているという感じがする。
現に今、ビジネスの世界で、ビジネス運動的な側面を持ったところが注目され、面白がられているし、そういう運動的な面を持てないところは、逆につまらなくなってきている。
「運動」というのは、まったく新しい火がつけられ、ぱっと燃え上がっていくということに向けて動いて行く複数の人間の営みであり、「活動」とは、もっとマニュアル化されたものと定義づけができるだろう。
私が寄居において自由民活運動を提唱するや否や、ふるさと懇話会ができ、次々と彼らは実践に移して行った。
ひとつ例にあげると、彼らは偶然の事から、寄居に住みついてトンボの研究に情熱を燃やしている人を発見する。町にこんな人材がいたという驚きと、寄居はトンボの宝庫だという事を知って、改めて町の良さを認識した彼らは、早速、その人に話しをしてもらう場を作り、トンボ祭り、トンボ博覧会、トンボ公園づくり等々、さまざまなアイデア、イベントを企画したのだった。
私が寄居で最初に言った事はきわめてシンプルな事だった。「地域運動というのは地域の大地に両足で立つ事だ」と、ただそれだけ。ところが彼らが何をやったかというと、早速、はだしで歩ける遊歩道をつくり、靴を脱ごうという運動を始める。あるいは、町づくり運動体を組織して血判状がわりに結足状と称して、みなの足型をとってしまう。いまこそこの寄居の地で草の根の自由民活が彼らによって根づいていく事を願うものである。
(望月照彦 著:ビジネス・ファイターの戦略発想より抜粋)
(トンボ写真:新井裕)