東洋のセザンヌとまでいわれ、近代日本の洋画壇にあって寡黙ながら
「絵だけ」で良心を語り尽くした
「凝視、熟考の求道者」画家 安井曽太郎
年譜に寄れば、
1888(明治21)年 5月17日京都木綿問屋の5男として生まれる。
1907(明治40)年 津田青楓と同行渡仏。アカデミー・ジュリアード入学
パリではミレー、ピサロ、セザンヌの作風を学び、帰国後、滞欧作品を第2回ニ科展(1915年)に
出品して画壇に大きな感銘を与えました。以降、安井画伯は日本の風土に立脚したリアリズムの開示
という大きなテーマのもとに清爽堅実な写実技法に基づき、たっぷりとした描線に装飾性を加味した
「安井様式」の花を咲かせました。私たちが生まれる前の、遠い昔のお話です。数々の作品を残し、
安井画伯がこの世を去ったのは、1955(昭和30)年12月14日のことでした。 絶筆「秋の城山」
安井曽太郎画伯 67年間の生涯。
いくつかの時代がありました
何度かの戦(いくさ)がありました
一番大きな戦があったとき
戦火をさけていなかへ・・・
わたしのふるさと寄居の地へ
一人の画家が疎開して参ったのです
寄居町刈茅483番地
1945(昭和20)年 中国北京にて制作中に病む。3月帰京、ただちに埼玉県大里郡寄居町に疎開する。
終戦直後藤山愛一郎氏の肖像を描く。
1946(昭和21)年 「安部先生像」 「桜」 「栗」 「T夫人の像」 「大観先生」を出品。
1947(昭和22)年 11月寄居を引払い下落合の自宅に帰る。
わずかに2年と数ヶ月ではありますが、
いまこうして安井曽太郎画伯の作品を思い浮かべるにつけ
戦火にみまわれていた日本の国土ではありましたが
「寄居」という地で体感し、画伯独特のリアリズムで見据えられ表現された
「寄居」での作品に触れてみたいと思うのは私だけでしょうか。

みずゑ607より 「寄居風景」1946
安井画伯逝去の翌年、1956年2月号 「みずゑ」607 美術出版社 は、
追悼「安井曽太郎」
各界の著名人による追悼の言葉のなかに
喪主慶一郎氏、喪主妻良子夫人とある。
良子夫人は寄居から安井家に嫁いだ方である。
私の家の3軒隣り、昔は5軒隣り…。うちの親父(昭和50年に死去)と同じ歳。
ご存命と聞いているので、今年74歳か。
「いちもり」という屋号の魚屋で私の子供のころはたいそう繁盛していた。
近年、ご主人(良子夫人の実弟)が病におかされいまは仕出しの店として営業。
私が安井画伯の絵にはじめて対面したのは、8年前のことだったか。
東京北の丸公園にある「東京国立近代美術館」
中国服を着た女性の絵・・・「金蓉」 1934
奥深い自然を描いた・・・「奥入瀬の渓谷」 1933
これを機にまるで吸い寄せられるかのように安井画伯の作品との出会いが続くのだ。
すべて作品というわけではないが、それというのも・・・
5年前の夏休み。妻と長女はシンガポールへ旅行に行ってしまった。そこで
残される羽目となった私と息子がめざしたのが千葉県鴨川の近く、太海にある旅館
「江沢館」であった。 「外房風景」 1931 大原美術館蔵
眼下に広がる海岸風景を思いきった横長の画面に描いた大作という。実物まだみていない。
学生時代に大原美術館を訪れたことがあったが、そのころは日本人の描いた洋画には興味がなかった。
話は「江沢館」に戻るが、息子と私はココに2泊。仁衛門島での海水浴と夕食の「鮑の踊り焼き」に舌鼓を打った。
翌夏も、こんどは、みんなで行ってしまった。
この年、NHKの「小さな旅」で「画家の泊まった宿」として紹介された。
「江沢館」4階、希望の部屋に泊まれた。
「勢いのある筆致が自然の息づかいを生き生きとあらわし、
白色を多用したコントラストの強い色彩は、照り返す夏の日差しをいっそう強く感じさせる。」
木枠の小さな窓辺越しに安井画伯の眼光さらに鋭く・・・、といった面持ちにさせられた。
さて二番目の夜のことである。
前の晩から、夜中に虫のはいずる音が聞こえていた。なんとなくねつかれない。
風呂からあがり、みんなで「さあ寝ようか」と天井際の壁に目がいった瞬間。
真っ黒な毛羽立った足を八方に広げたデカイ蜘蛛。
「お父さん、早く捕ってよ」
お父さん、すかさず階下に駆け下り、助け?を求める。
昨年もお世話になったちよっと太目の女中さん
「先生が来たんじゃないの」
コレニハマイッタ。先生とはまさしく安井画伯のことであった。
Kunchanの独り言
・このページの背景はあえて黒にしました。なぜかというと、安井画伯の後期の作品は多くに「黒」の描線が使われているからです。その黒い線が絵を見るものにとってきわめて自然な感じがするからです。
・参考資料
みずゑ 607号 2月3日発行 1956 「追悼 安井曽太郎」 美術出版社
アサヒグラフ別冊 冬 2月15日発行 1987 「美術特集 安井曽太郎」 朝日新聞社
「生誕百年記念安井曽太郎展」図録 1989
毎日新聞社
・この寄居町にどれだけ、安井画伯の作品が残っているか、このことを知りたいのは山々ですが、太平洋戦争の戦中戦後の混迷まさに最たる中「戦争」という私たちの知らない「意味」、安井画伯帰京後数多くの画商が寄居の町に訪れたという話を聞き及ぶにつけ、あまり深く言及しないのが「藤山愛一郎」氏をして追悼の辞のなかで語られていたように、それが「良心」というものだろう。
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