我が家のアルバム・4 消防団

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今市大火



残されていた冊子2冊のうち、「火災出動の控」を開くと、赤丸印が押された項目が二つ見られる。
上記ページがそれ、少し読んでみます。

昭和9年度
1月24日午前2時半、男衾村今市火災へ出動、出動人員23名。
※今市へは現在自動車でも10〜15分かかる、
火災出動となると手引きの可搬ポンプ(リヤカーにエンジンが積んであるイメージ)を運ぶのであるから
どれだけ時間を要するか不明、ただし下に見るようにトラックを利用した模様。

三十三戸六十六棟半焼失、4時鎮火、10時帰着。
拾壱円五十銭 消防手23名出動費 − 預金
弐円十銭 白米1升 十一屋へ(町内の造り酒屋)
壱円十銭 副食物
五十銭 十一屋炊事夫手間
4円也 トラック2台 十一屋 帳屋(材木屋)
一、金拾九円弐拾銭也
1月26日午前9時より慰問品を集めて男衾村今市の被害者に贈る
集まる物品トラック一台。
午後2時今市臨時役場に着く。
出勤者 名称 の9名。
昼食 伊勢屋(団子と稲荷でお得意さん多数)、夕食 新エビス。
ホース14本、正喜橋より引き上げ蔵う
※使用したホースはよく乾燥させないといけないが、長いので火の見やぐらを利用していた。
火の見やぐらの場合1本ずつ担いで上がらねばならないので、
本数が多い場合、橋の欄干からたらして干した、昭和40年代まで。


消防団龍田丸1937

消防分団幹部旅行、横浜・龍田丸。昭和12年。
後列中央が祖父・先代半兵衛(尚一郎)。

先代半兵衛2

その拡大、まん丸の眼鏡が良くわかる、当時37歳。








消防団

現在の消防団とは、
消防組織法に基づき各市町村に設置され、地元住民で構成する。
団員は非常勤特別職の地方公務員となる。
常勤の消防署員と連携して災害対応や啓発活動をする。
報酬は年間数万円、1回の出動手当が数千円程度で、団員の奉仕精神で成り立っている。

火災出動控 出勤簿

昭和30年(1955)2月、一町四カ村が合併し寄居町が誕生する以前より
自治組織として祭りの運営に携わる地域・地区には消防団が存在した。
この表紙にある「二部」とはその中町地区をあらわす。
合併後はより大きな地域消防団に改組され、現在寄居町には七つの分団がある。
改組後も地区の「二部」消防団は中町自衛消防として、自治地区より予算計上されていた。
小さいながら地区の消防小屋があり、機材としては可搬消防ポンプ、消火栓毎の消防機材ボックスを持った。
昭和が終わるころまで、ポンプ躁法訓練など行い、火災出動もあった。

このノートは地区の消防小屋(現在はない)に残されていたもの、
この筆跡は私の祖父・先代半兵衛(尚一郎)のものである。

出席簿によると、団長団員は30名。現在も地区に在住されている家族の方がほとんど。

勤務記録2 勤務記録1

勤務記録によると月に2回は試運転を行い、季節によってはそれは井戸替えを兼ねた。
上記ページには、ポンプの分解修理をしたところ素人の手におえず、
蒲田の市原ポンプ工場までトラックで運んだ様子が書かれている。
ちなみに
「東京市日本橋区蛎殻町3丁目10番地
合名会社 市原喞筒諸機械製作所
電話 茅場町(66)5960」
とメモ。
修理費は88円80銭、昼食費7名で1円70銭とある。
現在だと昼食代から考えて、25〜30万円かな。

消防団江ノ島1937

消防分団幹部旅行、江ノ島。昭和12年。
座っている中央、前から3人目が祖父・先代半兵衛(尚一郎)。

先代半兵衛1

まん丸眼鏡が祖父、皆と違う上着を着ている。





東日本大震災では住民の避難誘導などにあたった消防団員が各地で命を失った。
岩手、宮城、福島三県の死亡・行方不明者は二百五十三人。
住民を守ろうとした行動が称賛される一方、仲間を失った団員は
「なぜ、これほど多くの犠牲を払わなければいけないのか」という思いが消えない。
もっと仲間の命を守りながら、住民を助ける方法はなかったのか。
ただ、使命感に突き動かされた団員の行動を知るほど、答えも出ない。

皆様のご冥福をお祈りいたします。