我が家のアルバム・2 光頭会

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日仏親善


年賀状

昭和9年1月23日。
例の潜在するハゲの三徳を高唱して
光輝燦と「光頭大会」が関東の勝地秩父長瀞に産声を上げてからやがて満三年、
年と共に増す頭の光沢をいとしがって会員諸君が
今年度の「優光特頭賞」をと頭磨きのトレーニングに余念の無い昨今、
はるか欧州の一角から此の連中をやんやと喜ばせる年賀状が届いた。
送った主は昨年夫人同伴で日本を訪れたフランスの一流新聞プチ・ジュルナール紙の
漫画家オスカー・ファブレス氏だ。
光頭会の連中を更に喜ばしたのは
同封してあったオランダ、アムステルダム発行の一新聞の切り抜き、
ファブレス氏の寄稿で氏の手になる漫画を見出して
一同光頭大会の世界的進出にむしろ驚いた、
そして「光頭に国境なしか!」と気をよくしたものだ。

新聞切り抜き


この項、終わり。







オスカー・ファブレス氏来長瀞

昭和8年5月7日、長瀞、舟下り。
右から2・3人目がフランス大衆紙「プチ・ジュルナール」よりの特派員、漫画家:オスカー・ファブレス夫妻。
左から3人目が我が家の先々代、中島半兵衛、曽祖父である。


巴里から来て見れば16

「巴里から来て見れば」
長瀞へ着いて見ると、若葉の森に囲まれた丘の上に非常に古い木造の社があった。
その建築の軽快な均整と、白木の彫刻と、一切唐風の影響を受けないところが、余にはひどく気に入った。
同じ社でも日光のそれは余の趣味から言うと少し豪華の誇りが強すぎて、これの清純なるに及ばない。
兎に角金に飽かせても幸せを買うわけには行かぬもの、殊更芸術の領域では然うである。
長瀞の社こそ、素朴なハイカラ味があって、若葉の燃え立つ森の魂とぴったり添った美しさがある。
それから、それこそ版画にあるような風光の中で昼飯を摂り、
皆して奔流のうづまく渓流へ出て舟遊びと洒落た。
方々の岩の上に、カメラを弄ぶ人たちが多勢いて、余等の軽舟を見かけては、一身にレンズを合わせる。
それも此方から見れば、よき眺めの一つであった。
快き一日を終わって東京へ戻った余等は、
露出した頭のいただきが日焼けしていつもよりは一段と光芒を増した事だったが、
相見互いに心の愛の通う禿頭の人々こそ、夢ならぬ国際交歓のユートピアを実現すると思えた。
若しそれ余に至っては余も亦光頭の一人として、また新聞人として、
此の好意ある人々の国と余の祖国との間に立って、
痩せたりと雖も立派に両者の緊線と成らん事を、心ひそかに盟った。
余は今後、あらゆる機会を取って、
余が今は深くも愛する日本の眞面目を伝えようと思う。








オスカー・ファブレス氏来長瀞

昭和8年5月7日、長瀞、岩畳。
左から3・4人目がフランス大衆紙「プチ・ジュルナール」よりの特派員、漫画家:オスカー・ファブレス夫妻。
右から3人目が我が家の先々代、中島半兵衛、曽祖父である。


巴里から来て見れば15

平和よ禿げの上に

余は今度の日本旅行まで、自らの脱毛症を大して気にしていなかった。
ただし今にして、余はそれの価値を悟った。
ありがたや造化の神がこの頭をツルテンとさせてくだすったばかりに、
余は日出ずる帝国へ来てその太陽を照り返し
やがて仏蘭西へ帰る時はその余燼で後光をさし添えて帰る事が出来るわけだ。
かくて長瀞行きの汽車の中。余は二つの悦びに浸ったのだった。
第一は窓外の晩春の眺めだ。
それは野生のつつじで甘い匂いが沸き立っていた。
それから、後にも先にも三等車ばかりで、気取る奴もなければ決して礼儀も失わず、
一種家族的な安逸があった。
此の味だけは、世界中何処に行っても見出せまいと、
腹の中で実に嬉しかった。
それに余等の外にも郊外へ押出す連中が多く居て、
旗や幟を立てて賑々しく、各自が色々の首巻きをして、景気よくやっていた。
それに立ちまじって、ほほ笑ましくも燦と禿げわたれる余等の一行互いの心は心に相通じ
神寂びた今日の行程を早くも車中から楽しむのであった。







オスカー・ファブレス氏来長瀞

昭和8年5月7日、長瀞、宝登山神社境内。
右から5・6人目がフランス大衆紙「プチ・ジュルナール」よりの特派員、漫画家:オスカー・ファブレス夫妻。
左から3人目が我が家の先々代、中島半兵衛、手にしたうちわに「光頭」の字が見える。

日仏親善

昭和8年5月8日、新聞切り抜き。
長瀞宝登山神社参拝、長生館中食、有隣倶楽部談話交歓、荒川遊船などの文字が見える。


巴里から来て見れば14

御神灯と電球の結婚、これがそもそも日本の文化の到達点であるべきだ。
美と実益との結合は、何人をも首肯させることだから。
それは兎に角、純なる自然美を見出すにはどうしても都心を離れなければならないから、
余は滞京中にせめて一日は田舎に行って、
日本味百パーセントの人たちと遊び暮らそうとの願望を抱いていた。
・・・東京に光頭会なる大きな禿頭クラブがあって、その面々が、
はるばる巴里から来てボツ然と露頂を光らせている余を誘い、一日清遊を試みようと言う、
サン然たる思い付きをしてくれたのである。
さてその汽車の中が、楽しい限りだった。







♪いろはに金平糖、金平糖は甘い、甘いはお砂糖、お砂糖は白い、
白いは兎、兎ははねる、はねるはバッタ、バッタは青い、
青いはオバケ、オバケは消える、消えるは電気、電気は光る、
光るは親父のハゲアタマ♪
ガキのころ唄ったもんです(多少記憶と違う点もあるが)。
禿げの人に中には、どうせならとことん光らせてやろうと、
生卵を塗って毎日艶出しにハゲんだ人もあるようですが、
こんな旗の下に集まった人たちがいた。


関東光頭会埼玉支部準備会。

光頭会埼玉支部準備会

昭和7年。熊谷寺。石碑右手、立っている羽織袴姿が先々代中島半兵衛。


取材記事

取材記事。幹事五名中に、中島半兵衛の名が有る。


池亭

熊谷町竹町竹井耕一郎氏所有、庭園池亭(今でも存在するのでしょうか?)。








富山1931

中央、頭一つ抜きん出ているのが、先々代の中島半兵衛。
アルバムのキャプションには、「昭和6年7月12日、光頭会富山県大会」とある。
「関東光頭大会埼玉支部」という仰々しい旗を持って、
支部の幹事代表として参加したときの写真らしいが、
埼玉支部の正式発足は調べたところ、まだ翌年を待たねばならない。
でまた、なぜ富山県大会に参加したのか?
ウェブ・サーチしてもその辺の事情は浮かんでこない。

その後、写真の一部拡大により発見。

光頭会宣言

光頭家大会宣言、長瀞宝登山神社境内。昭和6年4月5日の日付が見える。